昭和48年04月01日 特別奉修委員



 金光様の御信心を頂いて本当におかげを受けると言う事は、神様が下さろうとするおかげを受ける事ですけれども、そこであの、色々分からせてもらう事は親には親に都合があり、子供には子供に都合があるけれども、信心は結局自分の都合を言わずに神様のご都合主義にこちらがなると言う事が今日の朝の御理解でいうと、一つ心、一心になると言う事はそう言う事だとね。ただ一心に一生懸命に一心不乱に拝むというあれとは違う。お道でいう、一心というのは。
 私共にも都合がある。神様にも都合がある。だからなら、両方の都合を折半するという事になったら、これは、大したおかげではないと思いますね。だから私共は自分の都合というものをやっぱ無にして神様のご都合主義になる時に一つの一体に成ると言う事。一心になる、一つの身になると言う事。例えば夫婦が一心同体と言う事をいうが、あの一心同体の時には同じ心であってね、他の心はない。お互いを自分の良いようにしようと言う様な時には一心とも、同体とも言えない。
 私共が、成る程色々お願いをしておかげを頂くのですけれども、お願いをし、お取次を頂いたらだからそこにあの、任せるというあの、それから先は自分の都合も言わないという頂き方、そういう心情になってしまうと言う事が、一心だと言うことだ。今そんな事を頂いたですね。一心とは私共、子供の都合を一遍無くして、神様のご都合に突入するというか、入っていくという。
 そこに三代金光様のお言葉の中にもありますように、いつも神様が願い以上のおかげを下さるというのはそう言う事だと思いますね。ここではそれを夢にも思わなかったようなおかげと言っておるわけです。今朝今日、私の誕生だと、ですから、今朝からその事をお礼申させて頂いておりましたら親先生のお誕生だとね。だから親先生はもう神様と確かに一体になってござる。一心になってござる。
 だから今日、皆さん親先生お誕生おめでとうございますというまあ、祝辞を受けるのではなくて、私も一緒におめでとうございますとこう言う事になる。大坪総一郎とこう切り離してある。大坪総一郎はまだ、一体になっていないという、いわゆる人情、人間心、これは恐らく生きておる間はそうであろうとこう思います。ですから神様が下さった一つの神格というものがここでは親先生と言う事になっておる。最近ご本部からくる手紙なんかには合楽の大先生と書いてあるね。
 だから、参ってきておるものは大先生という神格になるでしょう。ですから、大先生であり、または親先生は神様と一体になってござるからこそ、金光様の願い以上のおかげをくださるというのと同じように、夢にも思わなかったようなおかげに展開してくるというのが、いわゆるその、大坪総一郎というものをむなしくして、親先生になりきっておられる時には、もう神様と一体になっておる時だと言う事なんですよね。
 そこに一心、神様と一体になっておるというおかげ。そこには私共願い以上または、夢にも思わなかったようなおかげの展開というものがあるわけです。ですから、自分の都合等と言うてはならんじゃない。言うてもよい。けれどもその自分の都合、お取次を頂いたが最後、もうお任せしますという生き方になると、やや一体になるという雰囲気というものがそこに出来てくるわけですよね。
   どうぞ。